司法書士法人・土地家屋調査士法人我孫子総合事務所(横浜)測量・相続・遺言

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日本民法の誕生(その五十二)

ところが、近年の研究により、日本民法典は、その構成においてはドイツ式を踏襲していますが、内容については、むしろフランス民法典を少なくとも半分以上ベースとして構築されていると主張されるようになりました(民法 日本 - Wikipedia・星野・論集1巻71頁、星野・論集5巻148頁)。

これは、旧民法が基本的にフランス民法を継受したものであったことのほか、民法典の起草を担当した三博士のうち、梅謙次郎と富井政章の二人の留学先がフランスであったという事情によるとされています(同上、内田・I4版25頁)。

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日本民法の誕生(その五十一)

日本民法典は、主としてドイツ民法を手本にしたとされていました。

すなわち、フランス式の旧民法にドイツ民法の優れた点を盛り込み、法典の構造自体もドイツ式が採用されました。

もっとも、当時は未だドイツ民法典は完成していなかったため、起草に当たって参照されたのはドイツ民法草案でした。

内容的には、ドイツ6、フランス3の割合で占められ、両国を共に母法とする法典だとされています。

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日本民法の誕生(その五十)

これで、条約改正は頓挫することになりました。

しかし、一方では平行して民法典の起草作業が進行していました。

法典調査会が設置されてから、およそ3年で民法は国会で制定される運びとなりました。

当時の日本には、西洋法学の基本用語すら完全には整っていませんでした。

翻訳を繰り返しながら、条文を作成する作業が続いたのです。

それを僅か3年で仕上げたということは、いかに大急ぎで草案を作成したかがよくわかります。

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日本民法の誕生(その四十九)

シェービッチの密約暴露と恫喝により、わが国の政界の中心には激震が走りました。

松方首相にしても、伊藤との対決を望む筈はありませんでした。

任は一切、青木側にあることにせざるを得ませんでした。

このような成り行きに憤懣やるかたない青木外相は、「もし自分の手記が公表されれば伊藤と井上の首が飛ぶ。」と公言しました。

それは、外務大臣としての先輩である井上馨の激怒を招き、重鎮・伊藤の反感を買いました。

結局、青木はドイツ公使に左遷されることになります。

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日本民法の誕生(その四十八)

確か「密約」は存在しました。

シェービッチは、津田の無期徒刑が決定したことを知ると「いかなる事態になるか判らない」旨の発言をしました。

これで、青木外相の責任問題が発生しました。

青木は、「自分は伊藤博文と井上馨に言われて約束しただけである」と自己弁護に終始しました。

一方、伊藤は「ロシア側の真意を確かめるよう指示しただけである。」と反論しました。

そして、自分が政府に迷惑をかけることになるのであれば、枢密院議長職を辞職すると述べました。

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日本民法の誕生(その四十七)

大津事件の余波は、政界中央部まで及びました。

駐日ロシア公使シェービッチが、青木外相との間で交わした「密約」を公表して激しく抗議したのです。

シェービッチは、以前から日本に対して恫喝的な態度を示していた傲慢な人物でした。

この事件についても、その対処に当たっていた青木外相、西郷従道内相に犯人の死刑を強硬に主張していました。

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日本民法の誕生(その四十六)

しかし、ロシアの対応は冷静でした。

ロシア政府は、津田を取り押さえた二人の車夫には、莫大な報奨金と終身年金贈り、大国としての風格を誇示しました。

津田三蔵は、西南の役の功績で下賜された勲位は剥奪され、北海道標茶町にあった釧路集治監に移送・収監されましたが、同年9月29日に急性肺炎のため獄死しました。

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日本民法の誕生(その四十五)

5月20日の午後7時過ぎ、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じた後、勇子は、剃刀で咽喉と胸部を切って自殺を謀りました。

しかし、その場では死ぬことができず、病院に運ばれて治療が施されたが、出血多量で絶命しました。

この事件を口実にロシアから宣戦布告されるような事態が発生すれば、日本国滅亡危機となりかねないと、彼女は憂えたのです。

享年27でした。

新聞は、その壮絶な死を「烈女勇子」と喧伝しました。

盛大な追悼式が行われ、下京区の末慶寺にある彼女の墓には、後年ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も参ったと伝えられています。

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日本民法の誕生(その四十四)

「このまま(ロシア皇太子に)帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と彼女は考えました。

確かに、明治天皇は、事件の翌日の5月12日、汽車で京都へ来られ、翌13日に同地でロシア皇太子を見舞い、続いて神戸まで見送っています。

さらに、19日には天皇は、神戸に停泊中のロシア軍艦を訪れ、再度皇太子を丁重に見舞っています。

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日本民法の誕生(その四十三)

山形県のある村では、犯人と同じ、「津田」姓および「三蔵」の命名を禁じる条例までも決議されました。

5月20日には、京都府庁の前で、一人の女性がお詫びの自殺を図りました。

この女性、畠山勇子は安房国鴨川町出身で、当時の平民出身の女性としては珍しく、政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読み漁るような気質の持ち主でした。

事件当時、彼女は日本橋区室町の魚問屋にお針子として住込奉公をしていました。

日本中が騒然となった時期、ロシア皇太子は、本国からの命令で急遽神戸港から帰国の途につくことになりました。

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日本民法の誕生(その四十二)

世間は、官民を問わず騒然とした雰囲気に包まれていました。

「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と噂が飛び交い日本国中に大激震が走りました。

学校は謹慎を表して休校し、神社仏閣では露国皇太子の平癒祈願が行われました。

東洋の小国日本が、国を挙げて恐露病の症状を呈したような有様でした。

ロシア皇太子宛の見舞いの電報は一万通を超えたといわれています。

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日本民法の誕生(その四十一)

大審院法廷は、大津地方裁判所に出張し、5月27日には判決が出されました。

事件発生から、事件発生から僅か16日後のことです。

 判決は、旧刑法第第292条(謀殺罪:死刑)および第112条、113第1項(未遂罪の減刑)を適用し、無期徒刑とするものでした。
  
第292条 豫メ謀テ人ヲ殺シタル者ハ謀殺ノ罪ト爲シ死刑ニ處ス

第112条 罪ヲ犯サントシテ已ニ其事ヲ行フト雖モ犯人意外ノ障礙若クハ舛錯ニ因リ未タ遂ケサル時ハ已ニ遂ケタル者ノ刑ニ一等又ハ二等ヲ減ス

第113条 重罪ヲ犯サントシテ未タ遂ケサル者ハ前條ノ例ニ照シテ處斷ス

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日本民法の誕生(その四十)

前に触れましたように、政府首脳・元老の大勢は、津田に旧刑法第116条を適用して、死刑に処するべしとの意見でした。

しかし、第116条の規定は外国の皇族を想定していませんでした。

大審院院長児島惟謙は、「刑法には外国皇族に関する規定はない」と主張しました。

「法治国家として法は遵守されなければならない。」と理を説いたのです。

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日本民法の誕生(その三十九)

世界大百科事典 第2版の解説によると、

【大逆罪】とは、「一般的には主君や親を殺すような人倫に背くところの悪逆な罪。1868年(明治1)10月の布告第916号仮刑律の中に〈磔刑ハ君父ヲ殺スル大逆ニ限〉るとあり,同年11月の布告では〈殺君父 大逆罪ハ臨期 勅裁之上可処磔刑事 其他磔罪廃止之〉ともあり,江戸時代の刑罰に多少修正しただけの応急処置であった。ところが明治政府の最初に編纂した刑法の新律綱領(1870),およびそれを改正した73年6月の改定律例では大逆罪は削除されている。 」とあります。

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日本民法の誕生(その三十八)

一方日本政府は、事件を所轄する裁判官に対し、大逆罪によって死刑を類推適用するよう働きかけました。

伊藤博文は死刑に反対する意見がある場合、戒厳令を発してでも断行すべきであると主張したといわれています。

行政が、司法に対して露骨な圧力を加えたわけです。

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日本民法の誕生(その三十七)

5月27日、検事総長三好退蔵は、「津田三蔵を刑法116条により死刑に処すべきだ」と論告しました。

明治15年(1882)に施行された旧刑法116条には、「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」と定められていました。

所謂、大逆罪の規定です。

大日本帝国憲法体制下の刑法典においては、大逆罪を最も重大な罪の一つとしていました。

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日本民法の誕生(その三十六)

5月19日になって、ロシア皇太子は、帰国の途につきました。

この日、大審院長児島惟謙は、巡査津田三蔵の行為は謀殺未遂罪に該当する旨の意見書を提出しました。

提出先は、松方首相および山田法相です。 

日本政府の首脳たちは、ロシアが賠償金や領土の割譲まで要求してくるのではないかと危惧していました。

彼らは,津田の死刑執行を望んでいました。

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日本民法の誕生(その三十五)

翌5月12日、元老の伊藤博文貴族院議長・松方正義首相・山田顕義法相・後藤象二郎逓信相・陸奥宗光農相・黒田清隆枢密院顧問らが急遽会合を開きました。

この席上、大津事件の犯人に皇室に対する罪(大逆罪)を適応する方針を了承しました。
 
5月13日、明治天皇は、ロシア皇太子を見舞いました。

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日本民法の誕生(その三十四)

皇太子アレクサンドロビッチは、後のニコライ二世となる人物です。

彼はこの年、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、お召艦「パーミャチ・アゾーヴァ」以下ロシア帝国海軍の艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中で日本を訪問したのです。

朝野を挙げての大騒ぎとなりました。

何しろ、大国ロシアの皇太子殺害未遂事件が起こったのです。

政府は直ちに、御前会議を開き、能久親王・西郷従道内相・青木周蔵外相を京都に派遣しました。

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日本民法の誕生(その三十三)

明治24年5月6日、山県が退き、松方正義が、総理大臣に就任しました。

松方総理大臣は、青木周蔵を外務大臣に任命しました。
 
青木が引き続いて、条約改正の任に当たることになったのです。

ところが、その直後5月11日に、満天下を震撼させる大事件が勃発しました。

滋賀県の大津で、巡査津田三蔵が、来日中のロシア皇太子アレクサンドロビッチに斬りつけ負傷させたのです。

これが、世に言う大津事件です。

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日本民法の誕生(その三十二)

明治24(1891)年3月3日、閣議で、条約改正方針が決定されました。

同月24日になり、青木外相は、駐日英国公使ヒュー・フレイザーに条約改正案を手交しました。

その内容には、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復等が含まれていました。

しかし、本国の英国外相が更迭されたので、交渉は進展はみられませんでした。

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日本民法の誕生(その三十一)

実のところ、駐日英国公使は当初、従来の交渉の基礎を全く覆すことになる新提案を本国に取り次ぐことはできないとして青木提案をはねつけていたのです。

ところが、英国側は駐英日本公使を通じて、日本の新提案を基礎とする交渉に応じる意志のあることを伝えてきました。

その結果、日英の正式交渉がはじまったのです。

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日本民法の誕生(その三十)

同年2月28日、青木外相は、条約改正に関する覚書を英国公使、次いで関係各国公使に提示しました。

 同年7月15日、英国公使は、本国政府起草の通商条約案および議定書を日本側に提示しました。

日本の覚書にほぼ同意したことになります。

このように、英国が、日本に歩み寄りを見せた背景には、ロシアのシベリア鉄道起工による東アジア進出を警戒したことがあるといわれています。

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日本民法の誕生(その二十九)

明治23年(1890)2月8日、青木外相は、閣議に次のよう条約改正案を提出しました。

(1) 外国人判事の採用は中止し、6年後の領事裁判権は撤廃する。

(2)外国への法律編纂の公約は中止する。

閣議はそれを認め、相互対等とする条約改正に関する方針を決定しました。

なお、領事裁判権とは、在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国法に則り裁判する権利のことをいいます。

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日本民法の誕生(その二十八)

条約改正交渉に失敗して倒れた黒田内閣の後を受けて成立したのが、山県有朋が率いる内閣です。

明治22年(1889)12月、第一次山形内閣が成立したのです。

山県は、青木周蔵を外務大臣に任命しました。

青木は、ドイツ留学で会得した語学の才能に加え,男爵家のエリザベトと再婚(1877)し、西洋外交にも自信を深めていました。

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日本民法の誕生(その二十七)

この事件で大隈は右足を失いました。

しかし、それに屈せず彼は自説を貫く決意でしたが、政府は方針を急転しました。

このため、大隈は失脚、辞任することになりました。

黒田内閣も総辞職の破目に陥りました。

外交交渉は中断され、結局、外国人判事任用も断念されました。

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日本民法の誕生(その二十六)

反対運動がたちまち全国的に沸き起こりました。

しかし、剛腹な大隈は決して自案を曲げようとはしませんでした。

そのため遂に、国粋的結社玄洋社の社員来島恒喜による大隈殺害未遂事件まで引き起こされることになりました。

来島は、大隈外相に爆弾を投擲し、自身もその場で咽喉を斬って自決したのです。

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日本民法の誕生(その二十五)

極秘の交渉を重ねた大隈外相は、条約改正の前途に自信を深めていました。

その秘密のベールが突然剥ぎ取られたのです。

この大隈案は、アメリカ、ドイツ、ロシアは、既に承認していました。

ところが、イギリスと交渉に入った途端にこの「ロ ンドン・タイムス」のスクープです。

秘密裏に、国辱的な外交交渉を行ったとして、国民の 憤激を買ったのは当然の成り行きでした。

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日本民法の誕生(その二十四)

この時期、わが国は条約改正を急ぎ、あと一歩というところまで到達していました。

当時の伊藤内閣の外務大臣は大隈重信です。

ところが、条約改正案の中に,大審院の中に外国人判事を任命する条項が入っているという記事が海外で報道されました。

明治21年(1889)4月19日付のイギリス誌「タイムズ」が、大隈外相の条約改正交渉案の詳細を、突如暴露したのです。

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日本民法の誕生(その二十三)

富井政章は、京都聖護院宮侍富井政恒の長男です。明治10年フランスに私費留学し、同16年法学博士の学位を取得し、同年帰朝しました。

同18年東京大学教授に任官。民法典論争に際しては施行延期を主張し、法典調査会の主査委員として民法改正に取り組みました。

また、梅謙次郎は、松江藩の藩医の次男として生まれ、司法省法学校を首席で卒業。

文部省の国費留学生としてフランス留学を命じられ、飛び級でリヨン大学の博士課程に進学し、首席で博士号を取得しました。

帰国して帝大法科大教授,および和仏法律学校学監となりました。

民法典論争では断行派に属しています。

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